松永真 《おかえり》《大きな一歩》《顔が西向きゃ尾は東》《見晴し台》《平和の門》
天神西交差点広場にあるシリーズ作品をご紹介します。
全部で5点あります。
まずはひとつめは《おかえり》。
『帰る』と『カエル』をかけているんでしょうね。
笑顔のカエルがお出迎えしてくれています。
《大きな一歩》
大きな一足の赤い靴。ギザギザ模様が特徴的です。
《顔が西向きゃ尾は東》
青い色のキリンです。
撮影した時間は木の影がキリンにかぶさり、それが作品の印象をより良くしていました。
《見晴し台》
一見すると抽象的な形でなにかわからないかもしれませんが、タイトルをみるとそれが椅子の形を表していることがわかるのではないでしょうか。
《平和の門》
ここまで紹介した《おかえり》《大きな一歩》《顔が西向きゃ尾は東》《見晴し台》すべてが集合しています。動物も、人間も、モノも、すべて一緒になった《平和の門》は見ているこちらの気持ちも笑顔になるようなあたたかい作品です。
松永真の昼の顔と夜の顔
この一連の作品は松永真の作品です。松永真という名前をデザイナーとして認識している、あるいは名前を知らなくても彼のデザインを見たことがある人は多いと思われます。
阪急百貨店のショッピングバッグ、ティッシュ『スコッティ』のパッケージ、西友・バンダイ・カゴメ・カルビーのロゴマークなど、彼はグラフィックデザイナーとして多くの場で活躍しています。
そんな彼がアートの世界にやってきたのは《メタルフリークス》シリーズが最初です。
このシリーズを彼が制作しだしたきっかけは、富山県高岡市で1986年から「工芸都市高岡クラフトコンペ」というデザインコンペが開催されており、1990年から彼が審査員を務めるようになったことです。
そこでつながりが生まれ、高岡市の鋳物会社の社長からブロンズ彫刻制作をもちかけられたことからこのシリーズは始まりました。
フリークとは「気まぐれ、酔狂、自由気まま」といった意味です。
松永真は以下のように述べています。
デザインの仕事が理性と客観を要求される昼間の仕事とすれば、フリークスは直感と本能が解放される夜の世界と言えるだろう。
(松永真『グラフィック・コスモス-松永真デザインの世界』集英社、1996年)
彼が制作する《メタルフリークス》シリーズは動物や人間などさまざまなものをシンプルに、そしてユーモラスに制作しています。今回の作品もこの《メタルフリークス》シリーズに共通する作風です。
松永真も述べているように、彼はデザインというある程度制約があることから自由になってこの一連のシリーズを精力的に作り上げています。
わたしは彼の有名なデザインを知っていても彼の名前は知らなかったのですが、これはデザインが匿名性を重視しているからだと思われます。それとは逆に彼はこのフリークス作品で自身のサインを大きく作品に取り入れ、強調しているようにすら見えます。
松永真はもしかするとデザインでは出すことができない自分の思い、自分の名前、自分の存在、そういったことを伝えたかったのかもしれません。
鉄板フリークス
松永真は《メタルフリークス》シリーズに引き続き、《ペーパーフリークス》シリーズを制作しています。
《メタルフリークス》が立体作品で、《ペーパーフリークス》が平面のドローイング作品ということになります。
そしてさらにそこから展開したのが《鉄板フリークス》シリーズです。今回ご紹介している作品たちがこの《鉄板フリークス》シリーズのひとつになります。
この《鉄板フリークス》シリーズの最初の作品はハービス大阪にあります。この作品は実は最初はブロンズで制作するはずだったらしいのですが、予算が許さなかったために鉄板を紙のように切り抜くというアイデアを思いついたとのことです。
こういったローコスト化のための策が愛らしい作品を生み出したというのはおもしろいことですね。
《おかえり》《大きな一歩》《顔が西向きゃ尾は東》《見晴し台》《平和の門》という一連の作品は福岡市の「天神西交差点歩道広場パブリックアート」の指名コンペで採用となったものです。これはゴミや自転車が放置されている小さな歩道交差点を「市民の憩いの場に変えたい」という趣旨で福岡市が始めた企画です。
わたしは朽ち果てた状態のこの広場は見たことはありませんが、現在ではたくさんの草花が植えられ、松永真の作品たちが明るく笑いかけてくれて、人通りも多くてにぎやかで、とてもおだやかな雰囲気になっています。
緑、赤、青、黄色、黒、彼の作品のカラフルな色合いがさらにこの小さな広場を明るい雰囲気にしてくれているような気がします。
松永真について
1940年に東京府で生まれ、第二次世界大戦中から戦後の幼少期を福岡県筑豊地域、次いで京都で過ごしました。1964年、東京藝術大学を卒業し、同校卒業後、資生堂の宣伝部に勤務、1971年に独立し、松永真デザイン事務所設立しています。
先にも述べたように、彼はグラフィック・デザイナーとして多くの場で活躍しています。
デザイナーとしての経験と、それに反発、自由に作りたいという思いから、彼のパブリック・アート作品は制作されたのかもしれません。
参考文献
松永真『松永真、デザインの話』アゴスト、2000年